身も蓋もないような話をするが、
今はこうして起業し経営している会社の代表である僕自身、
「別に起業をするつもりは1ミリもなかった」という話をこの記事ではしようかなと思う。
おい、起業支援をしているのに、そんなことで良いのか?
と思われるかもしれないが、全然問題ない。
なぜか?
僕は、「結果的に」起業をして良かった、と心の底から思っているからだ。
もう少しリアルに言おう。
「起業しなければ僕は死んでいたかもしれない」と思うほどの過去があったからだ。
今の僕の様子からすると、想像し難いかもしれないが、
人にはそれなりに嫌な過去、黒歴史というものがある。
僕の銀行員時代の黒歴史をリアルに書き、その上でなぜ起業して良かったと思えるのか、について語ろうと思う。
完全に職場で干された銀行員生活4年目
僕は、銀行員として働いてた4年目の秋頃、完全に職場で干された。
あれは2015年の7月ごろのこと。
それまでは外回りの営業マンとして、それなりに営業成績も良く、かなりチヤホヤされていた時期もあった。
当時在籍していた支店は、当初の配属店から3年目の4月に転勤した2か店目の担当店。
入行して一番最初の支店では、いろんな運が味方して、銀行員として最初のノルマ?とも言える、クレジットカードの店頭契約数では、他の諸先輩方を抜いて成績上位を叩き出し、「なんだこの1年目は?」と目をつけられたりもしていた。
すごくそれで自信はついたものの、いわゆる事務手続き、コンプラ関係はまるでダメで、いっつも課長や部長に怒られ、謝りの毎日で、「なんでこんなにも事務ミスばかりするんだろう」と本当に悩みに悩んでいた。
そんなこんなで、1年目からすぐに営業の経験もさせてもらったこともあり、2年目の最若手のプレイヤーとしてはそれなりに結果を出していた。2年目の最後には、自分の担当していたエリア内での新人コンテストがあり、ぶっちぎり。もう有頂天。そんな状態で最後は過ごしていたことを今でも覚えている。
そして3年目突入の4月。転勤が言い渡された。
転勤が決まった支店は、もう銀行内では悪名高い支店で、コンプライアンス面で常に最下位くらいを走っていて、行ったら最後、精神を病んで病院送りになる人が続出する、とまで言われていた。
そんな噂を半信半疑で聞いた状態で入った僕は、その噂が本当に現実だったことをすぐに痛感する。
転勤初日、支店内のメンバーのリストを見ると、「病欠」と書かれている人が多数。
ドロドロ、殺伐とした空気感。
死んだ目をしてパソコンを叩いている職員。
まだお客さんが店内にいるのに罵詈雑言を職員に浴びせる上司。
個室に呼び出しをされ、営業の数字ができていないことを延々と詰めまくられる説教タイム。
こんなところでずっと仕事をしていくなんて….とゾッとした。
配属されて1〜2ヶ月は、まだ入りたてということもあり、何も僕自身危険を感じることもなかったが、
3ヶ月ほど経った頃、本格的に僕自身にも営業のノルマがガッツリ言い渡された頃から、一気に当たり方がキツくなったのだ。
まず手始めに、
こんなの到底達成できそうもないようなノルマが課せられた。
同期対比約2倍はありそうな数字。
で、その数字をどう達成するのかすぐに考えて報告しろとのこと。
しかも悲惨なことに、僕が担当先として任されたのは、前任(支店よりも上のエリア担当になったため、顧客の一部だけ残して残りを僕に渡すことになった)が元々担当していたお客さんの中でも、銀行預金残高や投資商品残高の少ない、要は「あまり商売にならないような旨味のない顧客」だけ、全て僕に引き継ぎしてきたのだ。
「まぁこんなお客さんしかお前には渡さないけど、なんとか頑張れよな」って感じで。
預かり残高が低いだけならまだしも、クレームなどのトラブルが起きやすい、要注意顧客も渡してきた。
これは明らかに若手に対するイジメだ。そんな保有先で、どうやって数字を達成しろというのか。
かなり厳しい条件を突きつけられながら、日々営業をしていた。
ただ、自分自身も負けず嫌いな性格でもあるので、こんな状況だからこそ頑張ろうと思い、毎月ではないが数字を達成することができていた。
でも。ひどい仕打ちは続く。
結局、数字を達成したとしても「来月はどうするんだ?もっとノルマ上げてやるぞ」と詰められ、数字ができなければさらに詰められる。
営業職とは関係のない事務職やパートさんがいるような朝会などの場面でも、名指しでボコボコに詰められるなんてことも日常茶飯事。
こんな仕打ちをされていたのは僕だけではない。
僕が転勤で入ってきた時から、全員から無視され、仕事を与えられず、ただただ怒られまくっていた先輩のKさんという男性社員がいた。
「Kさんとは話しなくて良いからね」とまでいきなり言われて、どういうこと?と不思議に思っていた。
Kさんが特別に何か悪いことをしたとか、そういうことがあったようには思えない。
ぱっと見の印象も、話をした感じも、全くもってすごく良い人。なのに、こんな仕打ちをされていた。
簡単にいうと、上司がこのような仕打ちをしていたのは、特別に意味があったとは思えない。
「なんか気に入らなかった」ただ、それだけの理由でずっと干されていた。
正直僕もその時は、Kさんがそういう状態になっていたのは「他人事」だったので、そんなに気にもしていなかった。
だが、自分自身も同じような目に遭う日がすぐにやってきた…。
結婚式を挙げた翌月。天から地へ突き落とされた
2015年の6月。僕は26歳で結婚式を挙げた。
実は、その6月の営業成績は今までの単月自己最高記録の結果を出して、その上で結婚式の日を迎えることもできた。
営業マンとしては100点の状態だ。
ただ、その結婚式の翌月から僕は地獄へ堕ちた。
そんな営業成績を出している裏側で、実は上司とあともう一人、影で実権を握っていたベテラン営業マンが鬼のようなパワハラをしてきていたのだ。
毎日毎日小部屋に連れ込み、営業数字のことはもちろんのこと、全く関係のない理不尽な理由を突きつけて、罵詈雑言を浴びせる。
部屋にあったホワイトボードのマーカーで、着ていた白のワイシャツにグリグリと線をつけられ、「この格好で外で営業して来い」と言われる。
まぁここで文字に起こしてしまうと、とてつもないヤバさの、汚い言葉を浴びせられまくっていた。
そうなると人間はどうなるか?
本当に人間はメンタルが病むのだ。
僕はまず、そのメンタルの異常が身体に出始めた。
異常なまでに全身から蕁麻疹が出る。瞼がパンパンに腫れる。唇がたらこ唇になる。ベルトや、膝のあたりなど、服で擦れやすいところは特に異常に腫れる。
お客さんのお家に訪問した時に最初に発症し、「山本くん、なんか顔腫れてるけど大丈夫?」と言われて、すぐに鏡を見て、自分の醜い顔を見て愕然とした。
次に、全く声が出なくなった。
カサカサした音と、ヒューヒューと空気が抜けるような、そんな音を出すことしかできず、まともにコミュニケーションが取れないレベルに。
営業マンとして、声が出ないというのは、仕事にならないということ。
外回りでの営業はもちろんのこと、電話をとることも、支店内で挨拶をすることもできない。
事務の仕事を手伝おうにも、そもそも僕は事務の仕事が苦手だ。余計に仕事を増やすだけ。
そんな時、当時の上司はなんと言ってきたか。
「は?なんで声出せないようになってんの?バカじゃねぇのか。」
いや、お前らのせいだ。と言いたかったが、声が出ないので言い返すことももちろんできない。
そんなことはまだ序の口。酷かったのはこうだ。
「どんな手使ってでも、数字上げてこないとどうなるかわかってんだろうな。」
もう、完全に脅迫である。
もう僕は命の恐怖をそこで感じていた。正直、そこまでに完全にメンタルはぶっ壊れている。
そして、正常な思考をするような脳の回路も壊れていたのではないだろうか。
数字を、どんな方法でも取らなければ、こいつらに殺される。とすら思っていたようだ。
そこから僕は銀行で決められているルールを犯してまでも数字を取ることに執着してしまった。
完全にボロが出て、僕の銀行員人生は終わった
度重なる脅迫によって、精神も思考も完全にバグっていた僕は、
結婚式翌月にとある案件で大きなミスをした。
他店の担当のお客さんで、一時的にこちらの支店の僕が担当して方の、書類がなくなったという騒ぎになった。
銀行で書類がなくなるというのは、かなり大きな問題だ。
毎日毎日探しまくってもどこにもない。
このまま書類がないとなると、担当していた僕が全部悪いことになる。
これではやばいと思い、精神と思考がバグっていた僕は、書類を改竄してその場を取り繕おうとした。
その場は一瞬なんとかなりそうだった。
ただ、数日後に監査部のチェックが入った。そこでこの事態のおかしさを追求された。もう言い逃れもできなかった。
そこから、目をつけた監査部は僕が関わってきた案件全てを隈なくチェックして、さらに僕がこれまでなんらかのルールを逸脱したようなものを洗いざらい出していった。
自分でも全く記憶がないほどの量だ。
そんな事態になってしまったがために、僕は当然の如く、営業としての仕事は中止させられた。
全ての問題について、本当に細かく詰められた。全てのことに対して、膨大な始末書を書かされ…
そんな日々を過ごしていると、もちろん周りの人たちは僕に対して誰も口をきかなくなった。
僕はこの支店に転勤してすぐにいた、同じように干されていたKさんの姿と、僕はまるっきり一緒だ。
自分には生きている価値がないと感じる日々
営業として毎日、怒られながらも仕事をしていた時は、
もちろん嫌なこともあったが、僕のことを必要としている人もたくさんいたように思う。
だからこそのやりがいを感じてもいた。
ぶっちぎりの営業数字を出した時なんて、優越感に浸っていたほどだから。
それなのに、その時の僕は、誰にも必要とされていない。
むしろ、こんなにもコンプライアンス的に問題のあることを続発させたせいで、当然に支店の業績評価は下がりまくるだろう。
銀行の評価制度は、減点主義。そして、連帯責任だ。
僕のせいで、一人一人の給料が減る。
僕のことをみんなが、貧乏神のように見ているし、避けている。
前まではあんなにチヤホヤしてきていたのに…
完全に自分の居場所を失った。生きる意味を失った。
今までは、朝早く電車に乗り、21時近くに家に帰っていた。
仕事が全くなくなってからは、そんな時間に出勤退社する必要もない。
でも、自分が会社で干されているなんて、妻に言えるはずもなく、何もないフリをして今まで通り朝早くに電車に乗り、朝マックをして時間を潰して、ギリギリの時間に支店へいく。
何もすることがなく、ただただぼーっと日中の時間を過ごし、まだかまだかと定時になるのを待ち、定時になった瞬間に退社して、時間をただただ潰して、良き頃に疲れたフリをして家に帰る。
そんなクズみたいな日々を過ごしていた。
もう虚無感しかないのだ。
なんだこの時間は。
なんで自分は生きているんだ。
もはや生きている意味があるのだろうか。
そう思えてしまうのだ。
ただ、それがその時の僕の引き起こした現実だった。
干された人が送り込まれる部署に出向が決まった
そんな生きた心地が一切しない日々を半年近く過ごした、2016年の4月。
ついに、僕は出向命令を受けた。
前までいたような前線で働くような部署では僕は使い物にならない。
なので、言い方は悪いが、干されてしまった人が送り込まれる部署に出向になった。
元いた支店では、もちろん送別の際に言葉をかけられることもなかった。
僕は嫌われ者なのだから。
新しい部署では仕事を与えられたかというと、もちろんゼロだ。
こんなやつに何を与えたって問題を起こすだけだ、と思われているから当然だろう。
こちらの部署にきても、朝から夕方まで何もやることはない。
ただただパソコンをカチカチして、銀行内部の情報をネットサーフィン的に見るしか過ごす方法はない。
1日1日がとても長い。
なんでこんな人生になってしまったのだろうか。
始めは転職を考えたけど、何も興味がわかないし、怖かった
当然、こんな立場になってしまった僕は、
始めはシンプルに転職を考えて、転職エージェントに登録をしてみた。
しかし、「志望企業」などの条件を選択するときに既に迷いが生じていた。
「これまで銀行員だったから金融業界って選択したけど、もう金融なんて嫌だ」
「とは言っても、他の業界のことなんてわからないから何も選択肢に上がらない」
「なんだかんだと銀行の給与水準って良かったんだな、他が魅力に感じない」
いくらいろんな求人を見ても、何にも魅力を感じない。
それに加えて、もし仮に転職したとして、そこの環境がまた同じようにハラスメント気質の職場であれば、もう僕は耐えられない。と流石に怖くなってしまった。
完全に僕は人間不信になっていた。
他人に対してはもちろんのこと、「自分」という人間に対しても信じることができなかったのだ。
とにかく怖かった。
だから、僕は転職という道を選ぶこともそこで辞めてしまった。
もう社会でやっていけないと感じ、死のうと思ったけど死ねなかった
出向先に行ってから数週間が経ち、
いきなり人事部に呼び出された。
嫌な予感はしていた。
人事部の人からこう言われた。
「山本さんが仕事ができる部署はどこにもありません」
はっきりと言われた。
これはイコール、退職しろという意味だと僕はすぐにわかった。
終わった。僕の人生は完全に終わったと思った。
実は既に僕の妻のお腹にはもうすぐ産まれそうな状態の子どもを授かっていた。
なのに、僕があと銀行に籍を置いておけるのはもうわずかしかない。
本当に窮地に追い込まれた僕は、自殺しようとした。
ただ、やはり家族のことが頭をよぎり、未遂で終わった。
なんで僕はこんな風になった?なんでこんな世の中なんだ?と腹が立った
自殺しようと思った瞬間、家族のことはもちろんのこと、
僕はあることに対して強い憤りを感じた。
確かに、僕が銀行でルールから逸脱した行為を行ったのは悪いことだ。許されることではない。批判も中傷も受けて当然のことだ。
しかし、元々僕がそんな行為に及ぶようになった原因を作ったのは、
他でもない、職場の上司等のパワハラや就業環境が最悪だったからではないか。
たられば論になってしまうが、
もしそんな環境じゃなかったら僕はこんな悲惨な状況にまで追い込まれることはなかった。
だって、こんな状況に追い込まれたのは僕だけじゃない。
あのKさんだってそうだ。他にもたくさんの優秀な同期や先輩も、他の支店にいる人だって
パワハラを受けて精神を病んで退職したり、自殺した人や病死した人も何人も知っている。
こんな腐った世の中、社会だからこんな現象が起きているんじゃないか!
と僕は本気で腹が立った。
だから僕は、
優秀で才能を持っている人たちが理不尽に潰されていく社会を変えたい
と思って起業することにした。
言ってみれば、銀行から干され、転職して一般企業に勤めることもできなくて、言わば成り行き上、起業することになったと言える。
起業というのはあくまでも手段である
長々と書いたが、以上のように、ポジティブな理由で僕は起業をしたわけではない。
銀行員生活の最後は、本当に銀行を引っ掻き回して、無茶苦茶にして、逃げるように会社を辞めさせられたくらいの人間だ。
だからこそ、僕は起業という選択肢があって良かったと思っている。
もし、僕みたいな経験をしている人であれば、きっと他の会社に行ってもしんどくなるだけだろう。
であるし、大抵の人は恐らく自分で自分の人生を閉じようとするだろう。
でも、大丈夫。
起業という道は、そんな人にだって道を開いてくれる。
もう、自分に嫌なことを言ってくる人もいない。
自分が嫌だなと思って商品を売る必要もない。
自分のことは自分でコントロールできる。
もう大丈夫だ。これからは自分の人生は自分で選べる。我慢しなくていい。
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