銀行を辞め、家族を失いかけ、仕事を嫌いになった僕が、10年かけてようやく気づいたこと。

第一章 銀行を辞めた日、本当に辞めたかったもの

2026年6月30日。

今日で、僕は起業してちょうど10年になる。

「10周年、おめでとうございます。」そんな言葉をかけてもらうたびに、ありがたい気持ちになる一方で、どこか不思議な感覚にもなる。「10年」という響きは、まるで順風満帆に歩んできた人のように聞こえるからだ。

会社を立ち上げ、本を出版し、メディアにたくさん出演し、全国で講演をし、多くの経営者や起業家の支援をしてきた。大学院へ進学し、研究という新しい世界にも飛び込んだ。外から見れば、それなりに充実した10年だったように映るのかもしれない。

でも、僕自身の実感は少し違う。

この10年は、何かを積み上げ続けた時間というより、自分の未熟さと向き合い続けた時間だった。

だから今日は、「起業して良かった」という話を書きたいわけではない。

むしろその逆だ。

僕が何を間違え、何を失い、何度立ち止まり、それでもなぜ今もこの仕事を続けているのか。その答えを、自分自身の整理も兼ねて書いてみようと思う。

少し長い文章になる。

でも、この10年という節目だからこそ、きれいにまとめるのではなく、できるだけ正直に書き残しておきたい。


2016年6月30日。

僕は三井住友銀行を退職した。

当時27歳。結婚してまだ1年ほど。妻のお腹には、もうすぐ生まれてくる子どもがいた。

起業したいという夢があったから銀行を辞めたわけではない。

「いつか社長になりたい」と思っていたわけでもない。

実際のところ、僕は起業するしか選択肢がなかった。

銀行員時代の詳しい話は、それだけで一つの記事が書けるくらい濃い出来事だった。

 

営業成績だけを見れば、決して悪い銀行員ではなかった。1年目には表彰も経験し、営業という仕事自体は嫌いではなかった。

でも、転勤を境に状況は一変した。

 

理不尽な叱責やプレッシャーが続き、心も身体も少しずつ壊れていった。

全身に蕁麻疹が出た。

声が3ヶ月近く出なくなった。

大きすぎるストレスがゆえに、正常な判断ができなくなり、大きな過ちも犯した。

その結果、仕事を外され、職場での居場所を完全に失った。干されたというやつだ。

今振り返れば、あの頃の自分は完全に追い詰められていたのだと思う。

 

一番つらかったのは、その現実を妻に言えなかったことだった。

朝はいつも通りスーツを着て家を出る。

でも向かう先は職場ではない。

職場からちょっと離れたマクドナルドだった。

コーヒーを一杯だけ頼み、何時間も時間を潰す。

頃合いを見て会社へ行き、仕事も与えられないので、何もすることがないまま一日を終える。

定時で上がらされるので残業なんてないのに、残業終わりの時間まで、また時間を潰してから家へ帰る日々。

「今日も疲れた」と口では言っているが、本当は何もしていない。

 

でも、「会社で干されている」とだけは、どうしても言えなかった。

人事から「山本さんが仕事ができる部署はどこにもありません」と告げられた時、自分の人生は終わったと思った。

 

社会に必要とされていない。

家族もろくに守れない。

こんな自分には父親になる資格なんてない。

 

本気で、自分の人生を終わらせようと考えたこともあった。

でも、その時に頭に浮かんだのは、妻と生まれてくる子どものことだった。

死ぬことはできなかった。

その代わり、一つだけ決めたことがある。

「このまま人生を終わらせるくらいなら、一度くらい、自分で人生を選んでみよう。」

 

それが、僕の起業の始まりだった。

だから僕の起業は、夢を追いかけた物語ではない。

華々しい挑戦でもない。

追い詰められた末に、残された道を必死につかんだだけだった。

銀行を辞めたあの日、僕はようやく自由になれたと思っていた。

もう理不尽に怒鳴られることもない。

もう数字に追われることもない。

もう誰かの評価だけで生きなくていい。

ようやく、自分の人生が始まる。

本気でそう思っていた。

 

でも、10年経った今だから分かる。

銀行を辞めたことで、会社という組織からは自由になれた。

銀行員という肩書きも手放せた。

けれど、一番厄介なものだけは、僕の中に残り続けていた。

 

「誰かに認められなければ、自分には価値がない。」

その思い込みだった。

そして皮肉なことに、その思い込みは、起業してからの僕を、銀行員時代以上に苦しめることになる。


第二章 成功という名の檻

銀行を辞めた日、僕はようやく自由になれたと思っていた。

もう上司はいない。

毎朝、数字を詰められることもない。

理不尽に人格を否定されることもない。

これからは、自分で仕事を選び、自分で人生をつくっていける。

そんな未来を思い描いていた。

 

実際、起業してからの数年間は、本当に充実していた。

すべてが新鮮だった。

営業も、企画も、提案も、セミナーも、SNSでの発信も、全部自分で決められる。

銀行員時代には感じたことのないワクワクがあった。

仕事を取ってくるのも自分。

売上をつくるのも自分。

お客様に喜んでもらえた時の達成感は、会社員時代とは比べものにならなかった。

「やっぱり独立して良かった。」

心からそう思っていた。

だから、夢中になった。

いや、「夢中」という言葉では足りない。

完全に仕事に取り憑かれていた。

 

朝起きた瞬間から仕事のことを考える。

移動中も仕事。食事中も仕事。

夜中まで資料をつくり、気づけば日付が変わっている。

寝る直前までパソコンを開き、朝起きたらすぐメール・LINEを確認する。

休日という概念もなくなった。

当時の僕は、一日に17時間くらい働いていたと思う。

それでも苦ではなかった。

むしろ、「これくらい働かなければ成功できない」と本気で思っていた。

起業家とは、そういうものだと信じていた。

だから、家族との時間はどんどん減っていった。

 

「今だけだから。」

「もう少し軌道に乗れば落ち着くから。」

そんな言葉を何度も妻に伝えていた。

でも、その”今だけ”は、いつまで経っても終わらなかった。

 

売上が上がれば、もっと上を目指した。

講演依頼が増えれば、もっと増やしたくなった。

SNSのフォロワーが増えれば、さらに伸ばしたくなった。

一つ達成すると、すぐ次の目標が現れる。

山を登っているつもりだった。

でも今振り返ると、同じ場所を走るランニングマシンの上でもがいていただけだったのかもしれない。


起業して数年が経った頃には、周りから「順調ですね、すごいですね」と言われることも増えた。

ありがたいことに仕事も途切れなかった。

行政との仕事も始まった。

出版の話もいただいた。

全国各地へ講演に呼んでもらえるようになった。

コミュニティのメンバーも数百名に増えた。

SNSでも多くの人に見てもらえるようになった。

世間から見れば、きっと成功しているように映っていたと思う。

でも、その頃の僕は、人生で一番大切なものから目を背けていた。

 

家族だった。

 

いつも通り、17時間ぶっ通しで働いて、大阪から終電で家に帰ったら、家にいるはずの妻と娘がいない。

LINEをしても電話をしても繋がらない。何回も何回も。

どうすればいいか全くわからず、部屋の隅っこに三角座りをしていた。

 

夜中の3時ごろ、妻から突然LINEが入った。

LINEのメッセージを開封した瞬間に血の気が引いた。

「なんでかわかる?」

 

僕はその短いメッセージを見て初めて、

自分が家族をほったらかしにしていた事実にようやく気がついた。

 

離婚。

その二文字が、初めて現実味を持って頭に浮かんだ。

その瞬間、自分が積み上げてきたものが、一気に崩れ落ちるような感覚になった。

 

僕は何のために働いているんだろう。

家族を幸せにしたくて起業したはずだった。

銀行を辞めたのも、自分らしい人生を送りたかったからだった。

それなのに、気づけば銀行員時代より家族との時間は減っていた。

家にいても心は仕事にあった。

子どもと遊びながらメールを返す。

食事中も次の企画を考える。

旅行へ行っても仕事の電話を取る。

身体だけ家にいて、心はいつも仕事へ出勤していた。

 

銀行員時代、「仕事のために人生を犠牲にしたくない」と思って辞めたはずなのに、今度は誰に命令されたわけでもなく、自分の意思で同じことをしていた。

そのことに気づいた時、自分が一番ショックだった。


それでも、すぐには変われなかった。

仕事を減らすのが怖かった。

売上が落ちるのが怖かった。

「勢いがなくなった」と周りに思われるのも怖かった。

起業家は成長し続けなければならない。

そんな思い込みに支配されていた。

だから、アクセルを踏み続けた。

踏み続けるしかなかった。

 

でも、人はずっとアクセルを踏み続けることはできない。

どこかで、必ずガソリンは切れる。

僕の場合、そのガソリンが切れたのは、思っていたよりずっと静かな形だった。

 

ある朝、パソコンを開いた。

メールを確認した。

返信しなければならない案件がいくつもある。

やるべき仕事も山ほどある。

でも、手が動かなかった。

 

「もう、仕事をしたくない。全くやる気が起きない。人に会いたくもない。」

人生で初めて、そう思った。

仕事が嫌いになったわけではない。

お客様が嫌になったわけでもない。

 

ただ、何のために働いているのかが、分からなくなってしまった。

 

売上は増えた。

会社も成長した。

会社のメンバーも増えた。

周りからは順調だと言われる。

 

でも、自分の心だけが、どこにもいなかった。

起業した頃のような高揚感は消えていた。

仕事が終わっても達成感はない。

売上が上がっても嬉しさは二日と続かない。

 

「次は?」

「もっと。」

「まだ足りない。」

そんな声だけが、自分の中で鳴り続けていた。

 

銀行を辞めても、数字は追いかけてきた。

上司はいなくなった。

でも今度は、自分自身が一番厳しい上司になっていた。

自由になったと思っていた僕は、結局また別の檻の中で生きていたのだ。

 

そして、その檻には名前があった。

「成功」

という名前の檻だった。


第三章 「もっと」の先には、何もなかった

今振り返ると、あの頃の僕は、燃え尽きていたのだと思う。

それも、花火のように派手に燃え尽きたわけではない。

少しずつ、静かに、誰にも気づかれないまま、火が消えていった。

 

外から見れば何も変わらない。

仕事もしている。講演にも行く。SNSも更新する。

お客様との打ち合わせも笑顔でこなす。

でも、自分の中では何かが確実に終わっていた。

 

仕事に心が動かない。

新しい企画を考えてもワクワクしない。

相談を受けても、以前のように頭が回らない。

もちろん、仕事はする。

責任感だけは人一倍あったから、依頼を放り出すことはなかった。

 

でも、それは「やりたい仕事」ではなく、「やらなければいけない仕事」になっていた。

今思えば、その状態が2年近くも続いていた。地獄の2年間だった。

 

当時は、自分が燃え尽きていることすら認めたくなかった。

認めたら終わる気がしたからだ。

「経営者なんだから。」

「頑張らないと。」

「もっとやれるはず。」

そんな言葉で、自分を奮い立たせようとしていた。

 

でも、人は心が止まると、根性では動けない。


どうにかしたかった。

本当にどうにかしたかった。

 

自己啓発本も読んだ。

YouTubeも見た。

成功している経営者の話も聞きに行った。

「目標を書け。」

「行動量が足りない。」

「もっと挑戦しろ。」

そんな言葉を聞くたびに、一瞬だけ元気になる。

でも、一週間もすると元に戻る。

何冊読んでも、何人の話を聞いても、答えは見つからなかった。

どこにも僕が求めている答えを持っている人がいなかった。

 

違和感だけが大きくなっていった。

ある日、ふと思った。

「もし、このまま売上だけを追いかけ続けて60歳になったら、自分は納得できるんだろうか。」

 

その問いに、自分で答えられなかった。

会社を大きくすること。

売上を増やすこと。

それ自体は悪いことではない。

むしろ経営者として大切なことだ。

でも、それだけを目標に働き続ける人生を想像すると、どうしても心が動かなかった。

 

僕は何をつくりたいんだろう。

何を残したいんだろう。

そもそも、なぜ働いているんだろう。

起業して何年も経ってから、ようやくそんな当たり前の問いに向き合うことになった。


そんな時だった。

大学院進学という選択肢が頭に浮かんだ。

 

正直に言えば、最初は迷った。

年齢的にも決して若くはない。

経営者をしながら研究なんてできるのか。そんな人周りに全くいないしな。

今さら大学院へ行って何になるのか。

周りからも、「MBAですか?」と聞かれることが多かった。

でも、僕が学びたかったのは経営ではなかった。

 

経営の方法は、もう十分学んできた。と言うより、現場でやってきたんだ。

 

だから、より深く追求したかったのは、人だった。

 

人は、なぜ働くのか。

人は、なぜ生きるのか。

人は、なぜ苦しむのか。

家族とは何か。

夫婦とは何か。

幸せとは何か。

そんな問いだった。

 

だから僕は、教育の世界へ飛び込んだ。

今思えば、それは藁にもすがる思いだった。

大学院へ行けば何かが変わる、という確信があったわけではない。

 

ただ、このままでは駄目になる。

その感覚だけは、はっきりあった。


大学院での研究を始めて、一番驚いたのは、自分の常識が何度も壊されたことだった。

夫婦へのインタビューを重ねる。

働き方について研究する。

ジェンダーについて学ぶ。

家族について考える。

人の人生を何十時間も聞き続ける。

 

よく言われる「普通・あたりまえ」ってなんだ?

大学院での学びの全てはここに詰まっていた。

 

あれ、自分もいつのまにか「他人が決めたあたりまえ」に縛られているんじゃないか?

 

自分は今まで、誰の人生を生きていたんだろう。

学生時代は、良い学校に行って良い会社に行けば正解、というのを追いかけていた。

銀行では、銀行が決めた成功を追いかけていた。

起業してからは、世の中がつくった「成功する起業家像」を追いかけていた。

年商。

会社規模。

フォロワー数。

 

どれも間違いではない。

でも、それは本当に僕が欲しかったものだったんだろうか。

その問いを繰り返すうちに、少しずつ景色が変わり始めた。

 

僕が本当にやりたかったのは、会社を大きくすることではなかった。

誰かの人生が、自分らしい方向へ動き出す瞬間に立ち会うことだった。

 

だから、経営戦略を考えることも好きだった。

ブランドづくりも好きだった。

それらは全部、「売上を上げるため」ではなく、「その人が本当に実現したい人生を形にするため」の手段だった。

そのことに、起業して何年も経ってから、ようやく気づいた。

 

振り返ると、僕は会社をつくりたかったわけじゃない。

起業家になりたかったわけでもない。

もっと言えば、「経営コンサルタント」になりたかったわけですらない。

僕がやりたかったのは、ずっと同じだった。

 

理不尽な働き方で苦しむ人を減らしたい。

自分の人生を、自分で選べる人を増やしたい。

 

銀行を辞めたあの日、心の奥で感じていた怒りは、形を変えながらも、ずっと消えていなかったのだ。

そして、その答えを机の上だけではなく、現実の社会で試される日が、思いもよらない形でやってくる。

 

「PTA会長をお願いできませんか。」

一本の電話が、また僕の人生を大きく動かすことになる。


第四章 ようやく、自分の人生がつながった

大学院へ進学してから、僕の中で少しずつ変わっていったものがある。

仕事の選び方だった。

以前なら、「売上になるか」という視点で考えていたことを、「本当に意味があるか」という視点で考えるようになった。

 

もちろん、経営者である以上、利益は大事だ。

会社を続けるためには売上も必要だし、お金がなければ理想だけでは何も実現できない。

それでも、利益だけでは人は動き続けられないということを、自分自身が一番よく知ってしまった。

 

だから仕事を受ける基準も、少しずつ変わっていった。

「この人と一緒に未来をつくりたいか。」

その問いが、自分の中で一番大きくなっていった。

 

そんな頃だった。

突然、一本の連絡が入った。

PTA会長が体調を崩し、続けられなくなり、僕が会長になってくれという知らせだった。

 

正直に言えば、最初は驚いた。

「え、僕が?」

という気持ちだった。

PTA会長なんて、自分の人生で引き受けることになるとは思ってもいなかった。

数年前の僕なら、おそらく断っていただろう。

 

売上になるわけでもない。

会社の実績になるわけでもない。

時間だけは大量にかかる。

 

経営者として考えれば、「やらない理由」はいくらでもあった。

でも、不思議と今回は違った。

「やってみよう。」

自然とそう思えた。

 

今振り返ると、それは会社経営で培ってきたこと、大学院で学んだことと無関係ではなかったと思う。

組織とは何か。

合意形成とは何か。

人はなぜ協力するのか。

地域とは何か。

家族とは何か。

そんな問いを何年も考え続けてきた。

PTAは、その全部が詰まった場所だった。

 

実際に入ってみると、そこには企業と同じような課題が山ほどあった。

前年踏襲。

情報共有の不足。

目的が見えない業務。

「昔からそうだから」という理由だけで続いている仕組み。

一方で、子どもたちのために何とかしたいと思っている保護者や先生方もたくさんいた。

 

僕には、それが面白くて仕方なかった。

気づけば、夜遅くまで資料を作っていた。

会議の進め方を考えていた。

DX化を進めたり、業務を整理したり、保護者の負担を減らす方法を考えたり。

 

あれだけ仕事に疲れ切っていた僕が、利益の一円も出ないPTA活動に夢中になっていた。

自分でも笑ってしまった。

 

でも、その理由ははっきりしていた。

誰かに評価されるためではなかったからだ。

売上もない。

フォロワーも増えない。

表彰もない。

 

それでも、「子どもたちの学校を少しでも良くしたい」という目的だけは、とてもシンプルだった。

そのシンプルさが、僕には心地よかった。

そして、その時間の中で、ようやく気づいたことがある。

 

銀行を辞めた理由。

起業した理由。

家族を失いかけた理由。

燃え尽きた理由。

大学院へ進んだ理由。

全部、一本の線でつながっていた。

 

僕は会社を大きくしたかったわけじゃない。

SNSで有名になりたかったわけでもない。

もっと社会に近いところで、人の人生が少しでも前向きに動く瞬間をつくりたかった。

その手段が、たまたま起業だった。

経営支援だった。

出版だった。

講演だった。

大学院だった。

そして今回はPTAだった。

 

全部、別々の仕事をしているようで、僕の中では一つの仕事だった。

「人が、自分らしく生きられる社会をつくること。」

そのために必要な手段を選んできただけだった。

 

だから最近は、相談を受ける内容も少し変わってきた。

「どうやったら売上が上がりますか。」

という相談ももちろんある。

でも、それ以上に増えたのが、

「このまま今の仕事を続けていて、本当にいいのでしょうか。」

という相談だ。

 

その気持ちは、痛いほど分かる。

僕自身が、その問いを抱え続けてきたからだ。

だから僕は、売上を上げる方法だけを一緒に考えることはしたくない。

もちろん、事業戦略も、ブランディングも、出版も、マーケティングも、そのために全力で考える。

でも、それは目的じゃない。

その人が、本当はどんな人生を送りたいのか。

どんな社会をつくりたいのか。

そこから逆算して初めて、事業は本当に力を持つ。

 

この10年で、一番大きく変わったのは、事業ではなかった。

僕自身だった。

成功したから変わったのではない。

失敗したからでもない。

何度も立ち止まり、遠回りをし、自分が信じていた「成功」を一つずつ疑い続けたから、ようやく少しだけ、自分の人生を生きられるようになった。

 

10年前、銀行を辞めた日、僕は「会社員」を卒業したのだと思っていた。

でも、本当に卒業しなければならなかったのは、「誰かが決めた成功を追いかける生き方」だったのかもしれない。

その卒業証書を受け取るまでに、10年かかった。

 

11年目は、もっと会社を大きくしたいとは思わない。

ただ、自分が心から意味があると思える仕事を、一つひとつ丁寧に積み重ねていきたい。

 

そして、その仕事を通して「このままでいいのだろうか」と立ち止まっている誰かが、自分らしい一歩を踏み出すきっかけをつくれたら、それ以上にうれしいことはない。

 

起業して10年。

ようやく、自分が何のために働いているのかが分かってきた。

だから、本当の意味での挑戦は、ここから始まるのだと思う。

山本 佳典

1989年岡山県津山市生まれ。 同志社大学経済学部卒業後、株式会社三井住友銀行に入行。入社1年目から営業成績No.1のエリア表彰を受ける。入社5年目に独立起業後、現在の独立起業のプロデュースを行う会社を設立し6年で延べ2,000名超の支援実績。日本テレビ『NEWアベレージピープル』などテレビ3社、新聞3社、ラジオ、経済雑誌などメディア出演実績30社以上と多数。 中小企業庁認可「起業家教育協力事業者」中学高校有名大学で講師登壇。 著書3冊『これからは入社5年経ったら、もう独立起業しなさい!』『13歳のきみに伝えたい本当に必要な7つの才能』『社員ゼロで1億円を生み出す最強の稼ぎ方』がある。

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